糸歌庁の神
「ようこそ、我が工房『綾ノ寮』へ!!歓迎するぜ~嬢ちゃん!」
「……あの、嘉綾様……?」
昼下がりの神理保守庁長官室へ深刻な様子で駆け込んできた目の前の上級神、嘉綾様に何事かと気を引き締めつつ連れられてきた私、秌凜は、想定外の平和な様子に困惑を隠せずにいた。
約束もなしに神保庁長官を訪ねてきたのだから、何かしら神威に関わる一大事があったのだろうと思っていたのだけれど……。笑顔全開で興奮気味に手を引いてくる彼を見て、なるほど先程の思わせぶりな態度は揶揄われたのかと何とも言えない気持ちになる。そんな私の様子に人懐こい笑みを浮かべる嘉綾様は実に楽しそうで、それを見ていると許す気分になってくるのだから神というのは全く恐ろしい。
諦めて要件を尋ねれば彼は嬉しそうに笑って事前に用意してあった席へ通してくれた。まぁとりあえず飲め、と渡された茶を受け取ってありがたくいただき、一旦落ち着いたところで軽く前置きをして嘉綾様は本題へ入った。
「昨日『糸ノ寮』へ何やら愉快な話を持ち掛けたと聞いたんだがな」
「あら、随分耳が早いんですね」
「そりゃ糸歌庁内の話なら一通りな。だから嬢ちゃんが糸反に拒否されてうなだれてたのも知ってるぜ」
自由奔放なこの男は、天郷におけるほぼ全ての衣類製造を司る糸歌庁の現トップ3である。それゆえに自身の工房である綾ノ寮だけでなく糸歌庁全体の情報にも精通しているのだろう。
が、知られたくないところまで知られていたようで今更ながら神のデリカシーの無さに笑顔が引き攣る。
「で?何しに行ったんだよ。面白そうな話なら俺が手伝ってやってもいい」
ずいっと乗り出す彼を押し留め、言わないと帰れないなと観念して私は事の顛末を説明することにした。
「昔、私が界視官として人界に赴いたことがありましたでしょう?その際に見た衣装を糸反様に作っていただけないかと思ってご相談したのです」
「ははぁ~なるほど!そりゃ断られるわけだ。あの小娘、龍の旦那に異常なまでの忠誠心を持ってるからなぁ。旦那の命に背く衣は作らないだろうよ」
「ちょ、小娘って……まぁおっしゃる通りです」
どこか苦い気持ちになりながら頷く。人界のものを天郷に持ち込むことは原則禁じられているから、たとえそれを模した衣装でも糸反様には受け入れられなかったのだろう。彼女の理屈は正論で、納得しないわけにはいかなかった。
「にしてもお前さん、なんだってそんなこと頼みに行ったんだ」
その問いに私は少し言葉に詰まった。
実際、大した理由はなかったのだ。あるときふと人界では今くらいの時期に妙な祝祭があったな、と思い出して、その記憶が薄らいでいるのに何となく寒い心地になった。かつて経験したはずのものがまるでおとぎ話のように実感がなくなっていくことに焦燥感を覚えて、必死にそれを思い出して。やっと思い出した欠片を、何とか繋ぎとめようとしたのかもしれない。儚く散っていく人々の中で仙として生きる私の『昔』を知っていてくれる者は、私しかいないのだから。
なんてことをぼんやりと考えて言葉を紡いでいると、唐突目の前でパンと手が打ち鳴らされた。驚いて顔を上げれば快活な笑顔と目が合う。
「うん、面白い!」
「はい?」
「面白いから俺が手を貸そう。喜べ、この嘉綾が直々に衣を仕立ててやるんだからな!」
「いえ、しかし……。先程おっしゃられていたように龍王様の命に反することになりますし」
「もちろん多少の工夫はするよ。そのままの意匠で作る気はないし量産するつもりもない。世に出回らなきゃ問題ないだろ!」
禁に触れることを神に強いるわけにはいかない、と丁重に断ったものの結局楽し気に笑う彼に言いくるめられ、なし崩し的に衣装制作が始まってしまった。
それは想像以上に楽しいもので、茶を片手に記憶を手繰り嘉綾様がそれに合わせて図案を練る。衣装作りに関しては神なだけあって素晴らしく、まるで幻でも見ているような速さで布を織りあげていった。
何着か試作を作ったところで不意に彼が口を開いた。
「さっきから女物しか作ってないが、男物はいいのか?」
「それはまぁ、そうなんですけれど。作っていただいても私は着られませんし、着せる相手もいませんしね」
「ふーん。てっきり歴殿あたりに声をかけるもんだと思ってたが」
「歴様は着ませんよこういうのは。というか、あの方は自分で遊ばれることをあまり好みませんから」
苦笑いで返せば、確かにと深く納得したように頷く嘉綾様。そういえば彼は過去に歴で遊んで怒らせたことがあったと聞いたことがある。
「俺としては護家の小僧と獣耳の兄ちゃんに着せたいとこだがねぇ」
「暘俊殿と林鳥様に?何故です?」
「そりゃお前、面白そうだからさ」
「なるほど、一理あります」
正直私も他者を着飾るのは好きだから、嘉綾様の言い分も理解できる。可能なことなら男性組をとことん着飾らせてみたいものだが、きっとそれをやったら当分口をきいてくれなくなるだろうしなぁ……。
「にしても、妙な祝祭もあったもんだなぁ。化け物に扮して街を練り歩くなんざ俺が人界にいた頃なら考えられなかった」
「そうなのですか?」
「おうよ。俺のいた土地には『邪妖の道』って裏の道があってな。邪や魔が跋扈する道なんだが、これが割合人間もするりと入り込めちまうのさ。だから命が惜しい連中は夜中に出歩くことはなかった」
「そんなものが……」
初めて聞いた話だ。元々神様方は自身の過去や人界での出来事を滅多に口にしない。禁に触れるというのもあるが、あまり思い出したくないことでもあるのだろう。不謹慎ながら滅多にない機会に少し胸が高鳴った。
「ま、でも小僧や兄ちゃんならなんてことないか。二人とも武芸には心得があるようだし、肝も据わってそうだからなぁ!」
「あら、案外そうでもないかもしれませんよ」
少しいたずらっぽく笑って見せれば、彼は不思議そうに顎をさすった。
「嘉綾様はまじめな二人しかご覧になったことがないでしょうからご存じないと思いますけれど、あれで二人とも気が小さいところがあるのです」
「ほう!」
「二人にとって普段の衣は武装のようなものでしょうから……。ふふっ、それを脱ぎ去ってしまったら想像以上に情けないことになるかもしれませんよ?」
「ほうほう!それは見てみたいもんだなぁ!あの小僧が魑魅魍魎に怯えたりするんだろうか?」
「そうかもしれませんね、林鳥様なんて怖がって暘俊殿の肩を掴んで離さなかったりするかも」
「ははっあの男やけに強力な武具を隠し持ってるくせにそんな臆病な面もあるのか?それは愉快だなぁ!」
「それはもう二人とも冷汗が止まらないかもしれませんねぇ!」
「ははははは!そうかそうか!」
楽しい会話に茶が進む。そういえばどことなく気分が高揚しているような……。うーん、気のせい?
「それなら一層男物を織りたくなってきたなぁ!さぁ続きといこうか嬢ちゃ――」
「あーーーー!!いた、嘉綾様!!!」
彼の言葉を遮って工房内に響く青年の声。あれは、嘉綾様の契約者?なんであんなに慌てて。
「げっもう見つかったか。今回は早かったな紅紀」
「探したんですよ?!突然いなくなったと思ったら神保庁に出向いてるって知らせがきて!慌てて行けば本神いないし神保庁の官たちは慌ててるし!皆さんに事情を説明するの大変だったんですからね?!」
「そりゃお疲れさん」
「しかもようやく戻ってこれたと思ったら貴方、綾ノ寮に術張ったでしょう!糸ノ杜は軽々に使う術じゃないって私何度も言いましたよね?!抜け出すのすっっごく大変だったんですから!!」
「さすがは俺の契約者だなぁたった一刻で抜けてくるとは大したもんだ!次も頑張れよ!」
「もう~~~~~!!!」
キャンキャンと子犬のように騒ぐ紅紀殿とそれをのらりくらりと躱す嘉綾様のやり取りは見ていて実に面白いなと茶を飲みながらぼんやり眺める。紅紀殿はとても優秀な神士官だけれど、いたずら好きな嘉綾様の相手をするのはさぞ大変なようだった。
……それにしても今日はやけにお茶が進むような。
「あ?!長官殿、まさかそれ……」
彼はこちらに気づくと私が持つ椀を見てサッと顔を青くし、慌てて椀を奪い去っていく。
何事かと驚いていると、今度は顔を赤くして嘉綾様を叱り始めた。
「貴方長官殿になんてもの飲ませてるんですか!!」
「何ってお前、ただの酒だよ」
「酒の神が作られた酒がただの酒なわけあるかーー!!!大体茶に偽装するなんてたちが悪すぎます!ちょっとそこにおなおりなさい!!」
「そんなに怒るなよー。こいつだってたまには息抜きしないと死んじまうぜ」
「口答えしない!!!」
酒……酒かぁ……。なるほど道理でやたらと進むわけだ。お酒なんて久々だったから紅紀殿には申し訳ないけど少しありがたかった。何せ今日はもう仕事ができそうにないし、神様に騙されて飲んだと言い訳もたつ。休暇なんていつぶりだろうなぁ……。
「長官殿?しっかりしてください長官殿!」
「あーあぁ。ま、しょうがない。今日はこれでお開きだな。作った試作品は後で紅紀に届けさせるから、ゆっくり休めよー秌家の嬢ちゃん」
のんきな声を最後に私の意識は途切れた。
目覚めてみれば自室の寝台で、外は日が落ちかけている。
軽く伸びをしながら衣装部屋を覗けば、数着の試作品が衣装棚に掛かっていた。
これらの衣装が日の目を浴びるのは、また別のお話。