物語 小話 『絆を結ぶもの』

 絆を結ぶもの


 窓から差し込む朝日。
 それはわたしにとって何の変哲もない日常が始まる合図だ。……いや、何の変哲もないは言い過ぎかも?『普通の子』はわたしみたいにたくさん勉強することもたくさん鍛錬することもないんだって、この前巫女姉みこねえさまが言ってたような。
静華さいか、だいじょぶ?ちゃんと起きてる?」
 姉さんが覗き込んできた。わたしとおんなじ柘榴ざくろ色の丸い瞳はわたしと違って朝でもよく働いている。夕焼けのような髪がきらきら光るのに目を細めながら、わたしは自分でもわかるくらいふにゃっと笑った。
「うん、だいじょうぶ、おきてるよ」
「もー、起きてなーい!目が閉じてる閉じてる!早く支度しないと大姉だいねえさまに叱られるってば」
 怖い人の名前を聞いて私の意識は水をかぶった時みたいに跳ねる。大姉さまは怖いし容赦がない。いつもは大兄だいにいさまと中姉なかねえさまが庇ってくれるけれど、わたし昨日遅刻しちゃったから……今日は庇ってくれないかもしれない。
「わかったら支度しな?」
 焦るわたしに優しい笑顔を返して、姉さんはわたしの分の勉強道具を整え始めた。
 姉さんはわたしと違ってすごく大人で、すごく優しい。双子とは思えないくらい。だから巫女姉さまが贔屓にされるのもとってもわかる。わたしだってこんな妹がいたら甘やかしちゃうもん。

 「姉さん、支度できたよ!いこう」
 手早く身支度を整えて声をかければ、姉さんは丸い瞳をもっとまん丸にして吹き出した。
「あはは!もー静華ってば、髪を結ぶ位置がバラバラになってる」
 言われてさっき結んだ二本のしっぽに触れてみれば、確かに左右で位置が違う。全然違う。
「あう……だ、だってまだ新しい髪留めに慣れてないんだもん!鏡だってないし、仕方ないじゃない……!」
 むっと頬を膨らませたわたしの髪に姉さんの柔らかな手が触れた。
「ふふ、はいはい。じゃあ姉さんが――」

 
「私が結びましょうか、静華さいか様」
「!」
 はっとして視線を上げる。目の前には少年が一人、生来の生真面目さが滲む顔でこちらを覗き込んでいた。
「先程から髪を結ぶ仕草をしながら呆けてらしたようにお見受けしますが」
「……ありがとう、へき。でも大丈夫、自分でできるわ」
「そうは仰いますが時折結ぶ位置がずれておられますし、ここは私にお任せください。あまり器用じゃないんですから」
「んな……!」
 数年前に二水にすいの段を終えたばかりのひよっことは思えないほど表情が動かない彼は、その若さゆえか大人が口に出せないことでもズバズバ口にする。私がそう教育したのだけど、時折こちらがたじろいでしまうこともあった。
「別に器用じゃないなんてことないわ。結ぼうと思えばきちんとできるもの。ただ、今日はちょっと気が抜けてただけで……」
「そうですか。失礼しました」
 淡々と言うと彼は私の手から髪留めを攫っていった。結びかけの髪を梳く感触に瞼が重くなるのを感じて、私は慌てて霹に声をかける。
「霹、今日の予定はどうなっていますか」
「本日は気楽にお過ごしいただけますよ。何せ会議が5件しか入っていませんから。それも全て『家』の中での会議ですし、隙間時間には安心して書類仕事に励んでいただけます」
 何も安心できる材料がないその言葉につい頭を抱える。私が『守護大家しゅごたいか』――通称『家』を設立してもう10年は経つというのに、問題は相変わらず山積みのままだ。

「お疲れですか」
「……いいえ、大丈夫。こんなところで立ち止まっていられないもの」
「それは、神子みこ様の――」
 言いかけた彼を静かに制する。霹には、彼女を『神子』だなんて呼んでほしくなかった。
「……失礼しました。貴方が頑張るのは、乱華らんか様のためですか」
「そう」
「こんなことをしなくても、乱華様の隣に立つことくらいできたのではないですか」
「そう、ね。でも、それじゃダメなの」
 無言の問いかけに促され、言葉を繋いでいく。
「私ね、姉さんが泣いたところって一度も見たことなかったの。小さいころ怖い大人に怒られた時も、熱を出して苦しい時も、家族みたいに思ってた人たちに石を投げられた時だって姉さんは泣かなかった。私はしょっちゅう泣いてたけれど。……でも、たった一度だけ、姉さんが神子にならざるを得なくなった時に一度だけ、『私を守れなかった』って涙を流してた。私その時分かったの。私とこの人はずっと対等じゃなかったんだって。私は一度だって姉さんを守れたこと、なかったから」
「……」
「だから、今度は私が姉さんを守るのよ。姉さんを押さえつける全部を取り払って、少しでもあの人が息ができるようにしてあげるの。そのためには、自分で地位を得なくては。他人から押し付けられた地位にお飾りとして祀り上げられても、私がしたいことはできないもの」
「……そうですか」
 こんな話子供に聞かせるものではなかったかな、なんて硬い彼の声を聞いて少し反省した。背中越しに様子を窺えばちょうど髪を結び終えたようだ。仕事に向かうべく重い腰を上げようとすると、待ってくださいと肩を抑えられる。本人はまだ納得がいっていないようで、丁寧な仕事ぶりに少し暖かい気持ちになった。
 
「あぁそうだ。霹、今日は夜少し出てきますから貴方はやるべきことが済んだら帰宅してね」
 髪を梳く手がピタッと止まる。と、少しして言葉を探すようにゆっくりと手が動き始めた。
「……今日は、どちらへ」
秌家しゅうけのわからずやを説き伏せに。そのあとは……内緒」
 髪越しに彼の動揺が伝わってくる。聡い子。私が何をしに行くか感づいてる。
「……静華様、気づいておられますか。近頃『家』のあちこちで良くない噂を耳にします。貴方が分権派の一部有力者を篭絡している、と。おう家の当主を殺めたのが貴方だと言う者もいる現状、夜出歩かれるのは控えた方がよろしいかと」
「忠告ありがとう、霹。でも気にしなくていいわ。言ったでしょ?立ち止まっていられないって」
 後ろで聞こえる深い溜息。……子供が吐いていい溜息の重さじゃないな、あれは。

「……できましたよ。髪」
「ん、ありがとう。霹は髪を結ぶのが上手ね」
「もう慣れましたから。それと、今夜は静華様の屋敷でお待ちしていますから早く帰ってきてください」
「えっ。いやダメよ。そんなこと――」
「毎回酷い有様で帰宅されることくらい私が知らないとでも?せめて湯にくらい浸かっていただかないと私が困ります」
 無表情だけれど絶対に譲らないという固い意志を感じる。これが齢13の子供だなんて、末恐ろしい子……。
「さぁ、お分かりいただけましたらそろそろ会議へ向かわれませんと、また弔家ちょうけのご子息に嫌味を言われますよ」
「うっ。わかったわよ……じゃあ、行ってくるね」
「書類仕事もお忘れなく。後で追加をお持ちしますのでそのおつもりで」
「わ、わかってるってば!じゃあ霹、また後で」
 一礼で見送る彼に手を振って、私は魑魅魍魎ちみもうりょうが集う会場へ急いだ。