物語 外伝 『常闇』

 『常闇』


 ――あぁ、私は一体、何をしているのだろう。

 明かりの消えた部屋で、一人報告書を眺めながらふとそんなことを思った。
 
 私の人生は、全て姉さんのためのものだった。姉さんのために生き姉さんに尽くして死ぬことが私にできる唯一の贖罪だと、そう思って生きてきた。少しでも姉さんの近くにいられるように血を吐くような努力を積み重ねて地位を手に入れた。姉さんが『あの男』の束縛から少しでも解放されるように、バラバラだった権力者を取りまとめ、『神』に対抗できるような組織を作った。姉さんの心労が減るように、『龍』の言動に目を光らせてきた。……けれど、もう。姉さんはいない。
 姉さんのためにしてきた全てが、今の私をじわじわと締め上げてくる。苦痛なんて微塵も感じなかったあの頃がまるで嘘のように息苦しい。

「失礼いたします」
「……へき。何かありましたか」
 資料から目を上げることなく問いかけた私に、腹心の部下は淡々とした口調で答えた。
「もう夜明けです、いい加減お休みください。これ以上はお体に障ります」
「……心配無用です。それに、この程度で死ねるのなら誰も苦労はしませんしね」
静華さいか様!」
 あぁ、今のはさすがに少し意地悪がすぎたか。珍しく語気を荒げた声に観念して竹簡を置くと、男は安心したように目元を和らげた。その様子に少し居心地が悪くなる。
「……すみません、そこまで心配されているとは思っていませんでした。私、そんなに根を詰めていましたか」
「いいえ、いつも通り激務に追われていただけですので根を詰めると言うほどではないかと。……いえ、私たちからすれば十分根を詰めているように見えましたが、貴方にとってみれば普通のことなのでしょう」
 落ち着いた声で流れるように話す彼の声は、淡々としているようで、どこか辛そうな色を含んでいた。
 わずかな静寂を挟み、こちらを伺っていた霹は、やがて言いづらそうにしながら口を開いた。
「……静華様。やはり、仕事を一部神吏かんりに任せるわけにはいきませんか」
 彼のいつもの問いかけに、私もいつも通り一部の隙もなく答える。
「えぇ、それは無理です」
「しかし――」
「霹。……あなたは、私が神嫌いなことを知っているでしょう」
 小さな子供の我がままを諭すように苦笑を浮かべて放った私の言葉に、彼はぐっと眉を寄せた。当然だろう。神を奉ずるこの地で、実質人々の頂点に立つ者が口にしていい言葉ではない。
 
 ……それでも私は、躊躇いなくその言葉を言えてしまうほどに、『神』が嫌いだった。

 難しい顔で彼が問う。『何故』と。今まで何度説明しても、霹はこうしてまた問いかけてきた。彼が幼いころから姿も変わらず在り続ける私は、きっと彼にとって神にも等しい何かなのだろう。だからこそ『正しくない言動をする私』を受け入れられないのだということも、理解できた。
(……全然、違うのに)
 私は、清廉な存在でも、まして神のような存在でもないのに。私はただ姉の後を追いかけるだけの、平凡で不格好な小娘なのに。霹が、士官が、市井の人々が、皆一様に私を尊敬と崇拝の眼差しで仰ぐのがたまらなく嫌だった。姉さんが皆から崇敬を集めるのはわかる。あの人はいつだって優しくて、気高くて、美しかった。でも私は、私は――。
 
「どうか、なされましたか」
 心配そうな霹の声に、自己嫌悪に陥りかけた意識が引き戻された。
「……やはり、少し根を詰めていたのかもしれませんね」
 何時間も座り通しで固まった体を伸ばすようにゆっくりと立ち上がる。ふと振り返れば、確かに朝日が昇ろうとしていた。

「……ねえ、霹。以前にも話しましたけど、私には姉がいたのです」
「……あなた様のそのお言葉を伺ってから、私自身様々な手を尽くしましたが……この地のあらゆる書物、あるいは人、あるいは神を当たっても、『そのような事実は存在いたしませんでした』」
「……そう、でしょうね。あの龍王すら、記憶に留めていなかった」
 女神討伐で姉を失い失意のまま何とか帰り着いた私を待っていたのは、『姉の存在が抹消された世界』だった。誰に聞いても、返ってきたのは『私が一人っ子である』というありもしない言葉だけ。あげく神子みこが私であるなんてことになっていて、どこをどう探しても私の記憶以外に姉さんの痕跡が見つからなかった。私にわかるのは、あの女神が何かしたのだろうということだけ。探しても、探しても、探しても……何も、見つからなくて。
 
 いつも姉さんの後をついて歩いていた私には、姉さんのいない世界はあまりに暗くて、足元すらおぼつかない。なんとか己の中に姉の虚像を作り出して、頼りない想像の姉の足跡をたどる日々。暗く、虚ろで、消費されるだけの日々。
 ……そうやって何一つ己で決められぬ私が、誰かの神になどなれるはずもない。なっていいはずが、ないのだ。

「……ねえ、霹。この暗闇は、一体いつ、明けるのでしょうね」