物語 小話 『ほんとのお願い』

 ほんとのお願い


 その日の天郷てんきょうはどこか浮足立った空気が流れていた。
 陽光に輝く金の装飾が街を飾り、そこかしこに朱の灯明に囲われた大きな木板が立っている。人々は普段以上に忙しなく、けれど明るい顔色で通りを行き交っていた。
 今日は年に一度の『星辰大典せいしんたいてん』。願いを記した木札を星板せいばんへ掛け祈願する、天郷創生より連綿と続く祭典である。祈願開始が夕刻からとはいえ、夜には多くの屋台が立ち並び大いに賑わう大祭ともなれば準備も相当に忙しく、隠者や学生までも駆り出され街は人で溢れかえっていた。

 そんな中、人の流れをかき分け南東の丘陵地帯へ向かう少女が一人。大事そうに木札と筆を抱えて走っていく。
 「もう!こんなに人が多いなんて知らなかったわ!知っていたらもっと早く家を出たのに」
 むっと頬を膨らませる彼女の名は凛。天郷随一とも言われる名家の令嬢である。
(急がないと……!家内修練かないしゅうれんを抜け出してきたことがお父様に知られたら連れ戻されてしまうかもしれないし、万一歴が帰っちゃったら本末転倒だわ)
 
 やっとのことで街を抜け静かな森をしばらく歩くと、突如森の中に巨大な門が現れた。門と言っても扉はなく、その向こうにも変わらず森が広がっているようにしか見えない。明らかに異質なそれは人の世と神の世を隔てる門であり、その先には天郷にありながら人への積極的な協力を拒んだ神が隔離され各々の生活を営む神の街、『準級じゅんきゅう特区』が広がっていた。その門――通称『壱の門』は空間を分断する役割を担っており、特別な許可を与えられた者のみが入ることを許されている。
 
 凜は慣れた様子で門をくぐり足早に神の街を進んでいくと、とある屋敷の門を数回叩いて声をかけた。
緋海ひうみさま、いらっしゃいますか?」
 少し硬さを孕んだ少女の声に、中から美しい女性が顔をのぞかせた。
「まぁ、秌家しゅうけのお嬢さまではありませんか。ふふ、またお家を抜け出してこられたのかしら?元気が良ろしくて結構ですこと」
 緋海と呼ばれた女性は凜を見て優雅に微笑んだ。彼女の艶やかな黒髪と額の四本角が日光に当てられ白く輝いている。愛らしく口元を袖で隠す仕草は淑やかな貴族の令嬢のようで、とても準級神じゅんきゅうしんとは思えぬ穏やかさだった。しかし、その実この女神は人を喰らう恐ろしき海神であり、天司第二神あまつかさだいにしんの位に座す荒魂あらみたまである。
「突然の訪問申し訳ありません。その、今日は……お仕事はお休みなのですか?」
「えぇ。今日は歴さまと炎妃えんきさまが担当なさっているから、わたくしは休暇を頂いているの。貴方は歴さまに御用かしら?丁度暇を持て余していたから、よければ送って差し上げますわ」
 その言葉に凜はパッと顔を明るくさせて丁寧にお礼をし、差し出された手を取った。

「『天司第二神、緋海が天の空庭てんのそらにわへの道を願います』」
 彼女が眼前の空間に手をかざすと、申言しんごんに呼応し風景の一部が水面のごとく歪む。その水門は天司あまつかさに許された特権で、本来であれば準急特区最奥にある弐の門のさらに先にある天の空庭へ、どこからでも道を開くことができる代物である。
「さぁ、参りましょうね。風が強いかもしれませんから、わたくしの手をしっかり握ってくださいな」
 
 水門をくぐると同時、息をするにも苦労するほどの強風が凜の体に叩きつけられた。言われたとおりに手を握っていなければあっという間に体は突風に攫われていただろう。
 何とか踏みとどまって目を開けば、目の前には見上げるほど巨大な風の柱が渦を巻いていた。その中心でほんのりと薄く光って見えるあれが、探していたかみだろうか。
 風の隙間から見えるその人影がぐるりと空を一瞥しある一点を示すと、風柱はその方角へ雲を連れて動き出す。
 これが、天司たる歴に課せられたお勤め。天郷にとって生命線ともいえる天候操作の御業である。

 その姿を、少女は風が過ぎ去った草原でぼんやりと眺めていた。
(……あぁ、またあんな顔してる。こんなにすごくて偉いお仕事なのに、歴はいつも……)
 ――と、不意に意中の彼と目が合った。
「なっ……凜?!」
「あっやばっ」
 彼は顔に手を当て天を仰ぐと、深く息を吐いてつかつか歩み寄ってきた。その眉間には見事なしわが刻まれている。
「お前……危険だからここには来るなと言ってあっただろう!お前の様な小娘なぞ簡単に吹き飛ばされてしまうだろうに、何故わからない?!」
「で、でも!今日は緋海さまに付き添って頂いたもの!」
「もっと駄目だ馬鹿!」
 額をぐりぐり押してくる少年の言葉に、少女は半分涙目になっている。ごめんなさい、と素直に謝罪を口にした凜の隣でくすくすと緋海が笑っていた。
 
 *
 
 俺が一通りの仕事を終えるころには中天にあった日はすでに落ちかけていた。緋海ひうみは随分前に帰宅し炎妃えんきも先程仕事を終えて南へ戻っていったので、広い草原は随分と静かになっている。頬を撫でていく風に体を預けている凜を横目に、俺は口を開いた。
「で?なんで今日は抜け出してきたんだ」
 その問いに、凜はパッと顔を輝かせた。
「そうだった!ほら、今日って星辰大典せいしんたいてんでしょう?実はね、お父様から外出のお許しを頂いたの!」
「当主が?それは珍しいことも……いや待て、それは家内修練かないしゅうれんが済んだ後付き人と共にならという条件付きだったんじゃないか」
「そっ……そんなことないもの!条件なんて知らないっ。だ、大体今日の教練内容って前にやったことの復習だったし歴と一緒なんだから一人じゃないし何も問題なんてないからいいの!」
「お前……天司あまつかさを付き人扱いとはいい度胸だな全く……」
 膨れる少女を見て何度目かのため息がこぼれる。そういえば以前、滅多に話しかけてこない男に子供の相談されたことがあった。おてんばな娘だが一応最低限のことはこなしているし、成すこと全て優秀なので父もさぞ扱いに困っているのだろう。その上厄介な爆弾を秘めているともなれば、心労はいかほどのものか。……考えると頭が痛くなってくるな。
「それでね、見てこれ!お家を出てくるときにこっそり貰ってきたのよ」
 嬉々として掲げたそれは、祭りの主題たる願い札か。先程から何か大事そうに抱えているとは思っていたが、なるほど。どうやら彼女は、ここで札を書き上げてともに祭りを回るのが狙いのようだった。

「なら、早く街に引き上げないとな。あまり遅くなると街中に捜索の手が回って大騒ぎになるぞ」
「えっ?!それは困るわ!」
「俺だって厄介ごとはご免だ。……とりあえずお前が俺と共にいることは家に伝えておくから、その間に願い事を書いておきなさい」
 返事もそこそこに木札に向かう凜を確認し、ふわふわあたりを漂っていた風聖ふうせいに声をかける。要件はもちろん、凜の無事と祭りの見物について。……一応、禁域たる空庭そらにわに侵入したことは黙っておくか。それらの言伝を秌家しゅうけまで届けるように頼み終えたころ、隣から嬉しそうな少女の声が響いた。
「歴、歴、書けたわ!早く星板せいばんへ掛けに行きましょう!」
「わかったから落ち着け引っ張るな」
 何かを期待したように顔を覗き込んでくる少女に観念して願い札の内容を問いかけてやると、嬉しそうに顔をほころばせた。
「ふふっもちろんみんなの健康祈願よ!あとは修練時間の短縮と恋愛運の向上、お父様のお仕事が減ることともっとたくさんお外に行けるようにでしょ。それと――」
「ちょっと待て。願い札に対して叶う願いは1つだぞ。そんなに書いてどうするんだ」
「えぇ?!そ、そんなはずないわ!だってお願いを叶えてくれるのは龍王様なんでしょう?龍王様はすごい方なんだからこれくらい大丈夫よ!」
 
 隣を歩く凜の賑やかさに呆れを感じながら家路を急ぐ。
 ワイワイと楽しそうに、跳ねるように彼女は隣を歩いている。
 たまに訪れる少女の忙しなさは鬱陶しいようでいて、降り積もった寂寥感せきりょうかんを溶かすように温かい。
 叶うならば、この優しい人の子の生に幸多からんことを。我らが危惧する暗雲が影すら落とさず、ただ柔らかな幸福だけが差し込まんことを。
 神の願いなど叶えられるはずがないことを知っていても、俺はその運命を夕空に願わずにはいられなかった。

 後日譚


 翌日、天の空庭てんのそらにわにて。
「おはようございます、歴さま。昨日は随分お楽しみだったようで何よりですわ」
 何やら楽しげに口元を隠す女神に、俺はうんざりとした様子を前面に出して視線を投げた。
緋海ひうみ。一体なんの話だ」
「まぁ、誤魔化さなくてもよろしいんですのよ。大事な大事なお姫様と2人きりの逢瀬を楽しまれたのでしょう?」
「馬鹿を言うなただの付き添いだ。それに、あれだけ人でごった返した状況をお前の故郷では2人きりと言うのか」
 冷たく棘を含ませた言葉を返しても、彼女は髪の一筋さえ動じた様子はない。……厄介な女だ。
「まぁ!そのような冷たい物言いをされたら傷ついてしまいます。……それはそれとして、願い札にはなんと書かれていましたの?わたくし、気になってしまって昨夜はお魚も喉を通りませんでしたわ」
「……はぁ。相変わらず無粋なやつだなお前。何がと言われても、ごく平凡な願いだよ。健康祈願のような」
「あら、違います。そちらではありませんわ。昨日彼女が持っていたのは、彼女自身の札ではないでしょう?わたくしが伺いたいのは、本命・・の方です」
「……」
 緋海の言う通り、凛が持ってきた願い札はごく普通の札であり、本来貴族に与えられるものとは別のものだった。凛は家を出る時に貰ったと言っていたが、おそらく使用人の札を融通してもらったのだろう。つまり、彼女自身の札にはすでに別の願い事が書かれていたということだ。
 ……が。
「それをお前に教える必要はない。第一、本人が言わないことを俺が言うわけがないだろう」
「ふふ、ほんとうに融通が効かない方。たとえ彼女がその内に秘めていようとも、願い札が神に捧げられたモノである以上その内容を我らが知らぬはずはないと言うのに」
「それでも、俺が口にするつもりはない。……そう言うところが無粋だと言うんだ、まったく」
「そうですか。ふふ、歴さまならそうおっしゃると思っておりましたわ。……それにしても、本当に愛らしい方ですわね、あなたのお姫様は」
「……」
「ねぇ、歴さま。あなたは、あの方をどうされるおつもり?凛さまはあなたを本当に大切に想われているようですけれど……あなたは人の子がお嫌いでしょう?だって、あなたをこう・・したのは人の子ですものね。それなのに――」
「――おい。あまり、調子に乗るなよ」
「……あら。ふふ、承知しました。勘違いなさらないでくださいね。わたくしはお二人を応援していますから」
 どれだけ圧をかけようとどこ吹く風なその様子に、ため息が止まらなかった。こういう時は普段は頭を悩ませる存在の炎妃えんきが早く到着するようにとつい願ってしまう。得てしてそんな願いが叶えられることはないのだが。
「…………はぁ。俺は、あいつをどうこうする気はない。ただ普通に人として平凡な幸せを掴んで、平凡に死んでくれればそれでいい」
「……そうですか」
 にこりと微笑むその笑みが、何を言わんとしているかが手に取るようにわかる。……そう、わかっているとも。凛にとって、それが何より難しいことなど。それでも彼女には、何より貴重な『平凡』を掴んでほしいと思う。
「では、わたくしも及ばずながら祈りましょう。あなたと秌家しゅうけのお嬢様に、平凡な結末が訪れますことを」
 女神はそう微笑んで、澄み渡る空を仰いだ。