龍の巫女
「っ……」
傍らから微かに聞こえる歌声に重い瞼を持ち上げれば、視界は闇色に覆われていた。儀式から戻り倒れるように眠りについてからどれほど時間が経ったのか、月は既に中天を通り過ぎている。疲労感を訴える体に小さく息を吐いて視線を動かせば、予想外の人物が寝台に寄り添うように座り小さな声で歌を紡いでいた。
「……貴方は……」
「……ごめんなさい、起こしてしまいましたね。体の具合はいかがですか、暘俊」
こちらに向けられた視線は術面に遮られ、わずかな表情すら定かではない。それでも面の下に穏やかな微笑があることが感じ取れるほどに、彼女の纏う空気は柔らかかった。
「封聖殿……?何故この部屋に……」
ここは護家邸宅、当主の部屋。すなわち俺の私室だ。書斎であればまだしも、この部屋に使用人以外が訪れることは滅多にない。その上特別親しいわけでもなく一対一の会話すらほとんどしたことのない封聖殿が一人きりで現れたともなれば、立場的にも行動の裏を疑ってしまうのは同然のこと。
慎重に言葉を選ぶ俺を見て、相変わらず彼女はゆったりと口を開いた。
「以前……私の歌声は心地よいと、評されたことがあったものですから。儀式で疲れた貴方の一助になるのではないかと、黒狐様に頼んでお部屋に入れて頂いたのです」
言われてみれば確かに、例年と違い体の回復が早いような気がする。契嘉の儀は年中儀式の中でも特に重要で、特別体に負担がかかる儀式だ。それは人の身で請け負うには重く、この儀式が護家当主の短命たる原因とも言われるほどである。故に俺自身も、毎年契嘉の儀後は少なくとも丸一日寝台の上で過ごす事が恒例となっていた。しかし今年はこうして儀式後数時間で話せるだけの体力が戻っているのだから、彼女の歌声に何らかの効果があると考えてもおかしくはない。
「わざわざご足労頂き感謝いたします。確かに、普段より体が楽になったようです」
「そう。それならよかった。やはりあの方の評価は間違っていなかったようですね」
「あの方、とは?」
あえてぼかしたような言い方に疑問を抱いて尋ねれば、彼女はふふ、と微笑んだ。
「実は、私の歌声を評価してくださったのは歴様なのです」
「え、歴様……ですか?」
「えぇ。意外でしたか」
正直意外どころではなかった。あの方は神々の中でも特に人嫌いで有名なのだ。普段彼と接する人間が契約者たる凜だけなので忘れられがちではあるが、基本人間に対して友好的な態度を示さないのが歴だ。危害を与えることはないが決して近づかせず、踏み込ませない。一定の距離を踏み越えようとする者や秌家の人間に危害を加える者に対しては一切の容赦をしない、という彼の気質は『人に友好的でない神』の代表例として神士官の指南書に載るほどの常識である。
「……その、もしよろしければ……差し支えない範囲で構いませんので、貴方と歴様のお話を聞かせていただけないでしょうか」
「私と、歴様の?」
「はい。かつて『龍の巫女』と呼ばれた貴方のお話を聞いてみたいのです」
彼女はしばし考えるように窓の外を眺めると、こくりと頷いた。
「では、寝物語に少しだけ、お話しいたしましょう」
――
せっかくですから、歴様に私の歌を褒めて頂いたときの話にしましょうか。
あれは歴様と契約を果たした年の、契嘉の儀が執り行われた日でした。
契嘉の儀は神霊たる龍王様がそのお力を振るわれる日。それゆえ多くの聖霊が龍都に引き寄せられ、聖霊の力を宿す神霊の方々も皆龍王様の神気に当てられ力の均衡が乱れやすくなります。神霊は数が少ないとは言え莫大な力を有しますから、神霊の契約者はその日に限り契約神のお傍に侍り力の安定に尽くすことを義務付けられていますね。けれど私は契嘉の儀を執り行うために歴様のお傍を離れることとなりますから、龍王様を含めた皆が歴様を気にかけておりました。
契嘉の儀当日。歴様の負担が軽くなるようにと数名の神士官を派遣いたしましたが、歴様はそれらを拒絶して準級特区深奥の『隠りの宮』へ独り籠られました。それを知った私が儀式を終え急いで宮へ向かうと、歴様は宮の奥で苦し気に呻いておいでで……。今はどうか、わかりませんけれど、当時龍王様によって歴様に施された封はとても強力で、歴様の放出する神気が一定量を超えると首が絞まるようになっていたのです。そうまでして力を抑えねば民に害を及ぼすほどに歴様はお力の強い神霊であられましたから、仕方のないことではあったのですが……。この時の歴様は龍王様のお力に引かれて本神の意思に関わらず多くの神気を放出しており、人の姿を保てぬほどに追い込まれておられました。そのお姿を見て、私は気が付けば歴様の元へ駆け寄っておりました。
――「歴様!」
――「……巫女か。お前……疲れているのでは、ないのか」
――「そのようなことは些事でございます!何故神士官を追い返したりなさったのですか?!彼らがいれば、少しはましでしたでしょうに」
――「人は、何をするかわからん。……縛り付けられるのは二度と御免だ」
そう言われて、私は言葉に詰まってしまいました。過去に、歴様は神士官から封を何重にも掛けられ、隠りの宮に獣のごとく繋がれていたことがあるのです。それは私がいち早く歴様と契約していれば、なかったはずの出来事でした。
言葉をなくして俯いた私に歴様はそっと額を当て、穏やかな視線を向けられました。
――「歌を、歌ってくれないか」
――「歌、ですか?」
――「あぁ。『神の寵児』の歌声であれば、言霊を込めずとも力が宿る。お前は、俺の巫女、なのだろう?」
何かをしてほしいと願われたのは、これが初めてのことでした。私は日常的に歌を嗜むわけではありませんから、きっととても拙いものであったでしょう。それでも歴様はただ静かに耳を傾け、こうおっしゃったのです。
――「あぁ、やはり……お前の歌声は心地いい」
――
遠い記憶に思いを馳せながら彼女は穏やかに言葉を紡いでいく。時に重く、時に柔らかく響くその声を聞いていると、ふと妙な感覚を覚えた。以前どこかで似た声を聞いたことがあるような……。
「その後、私と歴様は半刻ほど他愛のない会話をして過ごしました。気づいたときには私は己の寝台に横になり、傍らには人の姿に戻られた歴様が寄り添ってくださっていて……ふふ、思い返してみれば今の状況にとてもよく似ていますね」
「大切な思い出をお聞かせくださりありがとうございます。歴様の一面を知れたような気がします。……一つ、伺ってもよろしいですか」
封聖殿は静かに頷いて、先を促した。
「私はどこかで、貴方と似た声色を耳にしたことがあるように思うのです。それがずっと気になってしまって……」
「あぁ、それはきっと凜でしょう。あの子も私と同じ、『神の寵児』ですから」
目の前の淑やかな女性とはかけ離れた人物の名が出たというのに、何故だか俺は納得していた。どこか腑に落ちたような感覚で、彼女の次の言葉を待つ。
「『神の寵児』は聖霊に深く愛された者。私たちの声は何か常人とは異なるようで、自然と聖霊が引き寄せられるのです。……歴様は、よく凛と一緒にいるでしょう?」
「えぇ」
「あれは、凜に集う聖霊を払っているのです。聖霊は集まりすぎれば人体に害をなしますけれど、神の寵児は不思議と聖霊を視る目を持たずに生まれるため、対応ができず死んでしまうことも多い。それを人知れず防いでおられるのですよ」
それを聞いてふと、ある報告が頭をよぎった。人嫌いなはずの歴様が時折町や里に赴いては、何かと話していたり何かを払うような仕草をしているというものだ。それは昔から度々報告されていた事柄で神士官の間では七不思議のごとく語られていたが、もしかすると……。
「……なるほど。歴様は私が思う以上に、愛情深いお方なのかもしれませんね」
俺の言葉に優しく微笑むと、封聖殿は美しい所作で立ち上がった。
「夜も更けてまいりましたから、私はこれで失礼いたします。……おやすみなさい、暘俊」
扉が閉まるのを見送って、再び瞼を閉じる。
静寂に耳を傾けながら、いつもよりほんの少し暖かい気持ちで、夢に落ちたのだった。