序章 第二幕
見渡す限り真っ白な空間に、全身真っ白な誰かがこちらに背を向けて立っている。
向こうに見える暗く黒い空間へ向かって、必死で何かを叫んでいる。
時に優しく、時に激しく、時に身振りを交えながら語り掛ける。
私にはその先に何があるのか見えないし、わからない。
わからないけれど、目の前の存在の悲しみが、怒りが、苦しみが手に取るように『見えた』。
その感情があまりに切実で、あまりに痛ましくて、見ていられなくなって私はつい手を伸ばす。
――そんな私を引き留めるように、背後から私の腕を炎に包まれた手が掴んだ。
*
「っ!!」
爽やかな朝の陽光が優しく部屋を包み込む自室で、私は夢から引き摺り出されるように目を覚ました。
「……何、今の夢……」
直前までみていた夢を反芻する。
……あまり、いい夢ではなかった。
劇的に怖い夢ではなかったけれど、何かとても心をかき乱される夢だったような。
その証拠に、目覚めたばかりだというのに心臓が嫌な速度で動き、冷汗が止まらない。
「はー……」
ゆっくりと深呼吸を繰り返して、いまだに尾を引く夢の気配を振り払う。
……大丈夫。ただの夢。気にしない方がいい。
「そんなことより起きないと!朝食の時間になっちゃう」
気付けに軽く両の頬をパンパンと叩き気を取り直すと、寝台から脱出しテキパキ身支度を整えていく。
いつも通りの動きやすくて身軽な服。女性らしさには欠けるけれど、これくらいが立場的にもちょうどいい。
「うん、これでよし。……変なところ、ないよね」
鏡の前でくるりと回って確認していると、ふと窓の外に目が向いた。
朝日が建物に反射して、街がキラキラ輝いて見える。
私が暮らす護家邸宅も相当に立派だけれど龍王様がいらっしゃる龍宮はやっぱり別格で、今日も今日とて神秘的だ。
「麗青様。身支度はお済ですか」
扉の向こうから耳なじみのある声が投げかけられた。
身の回りのお世話をしてくれる女中さんだ。
普段は声をかけられることなんてないのに、そんなに遅くなっていたのかな。
(それもこれも、全部あの変な夢のせいだ)
朝からこんな気分になるなんて、今日はついていない。
そんなことを思いながら、扉を開けて様子を窺う。
「おはようございます、麗青様」
微笑む女中さん。彼女が纏う色はいつもよりほんの少し暗い青。よかった、少し待たせてしまったけれどそれほど怒らせてはいないみたい。
「そろそろ朝食のお時間ですよ。せっかくですから、共に参りましょうか」
「あ、いいえ、一人で行けます。朝だし忙しいでしょう?私には構わずお仕事に戻ってください」
彼女の申し出を断って、朝食をとるべく急いで斎の間へ向かう。私はこの家の人と違ってお貴族様じゃないんだし、お供なんて侍らせていたらおかしいもんね。
パタパタと小走りで向かっていると、前に見慣れた黒髪が見えた。
暘俊だ。いつものように柔らかくて優しい淡黄蘗色を纏っている。
貴族の子息らしい優雅な身のこなしで姿勢よく歩く義兄は、どうやらまだこちらには気づいていないらしい。
周りを見回しても人はいないし、これは好機だ。
「俊おはようー!」
「うわ?!」
背後から挨拶も程々に飛びつくと、驚きの声と共に長髪がサラリと乱れ、そのまま数歩前へよろける。
おぉ、今日は転ばなかった。
なんて考えていると、呆れたような長い溜息と共に落ち着いた声が降ってきた。
「……おはよう、青。ところで、挨拶をするのに飛びつく必要はあったか」
「たまにはいいじゃない?それにほら、前みたいに転ばなかったよ俊!成長した!」
「余計なお世話だ!」
厄介なものを見るような顔をして私の頭を小突く暘俊。
こうして少々過度とも思える触れ合いに彼はいつも難色を示すけれど、私は知っている。こういう気の置けないやり取りをできることが、義兄はとても嬉しいのだ。その証拠に彼の色は明るく鮮やかな梔子色に移り変わっている。
「ほら、早くいかないと朝食に遅れる。……くれぐれも、母上と父上の前であんな振る舞いとるんじゃないぞ」
「わかってるって!安心してよ、わきまえてるから。行こ、俊!」
*
斎の間には温かい朝食が並べられ、いい匂いを漂わせていた。
すでに奥様はいらしていて、優雅にお茶を飲んでいる。当主様は、まだいないみたい。
「おはようございます、母上。父上はお仕事に?」
「おはようございます、暘俊。えぇ、当主様は先程神官府へ向かわれましたよ。貴方たちも早く朝食を済ませて学舎へ向かいなさいな」
「えぇ、そのようにいたします」
母子の朗らかな朝の会話がひと段落するのを見届けて、私も口を開いた。
「おはようございます、奥様」
彼女の美しい白藍色が、ほんの少し暗く濁る。
「……おはようございます、麗青。貴方も早く召し上がりませんと、授業に遅れてしまいますよ」
「はい。朝食が済みましたら暘俊様と学舎へ向かいますから、ご安心ください」
「えぇ、そうね。ここは安全な都だけれど、何があるかわかりませんから、そのようになさい」
柔らかく微笑む奥様に頷いて、早速朝食に手を付ける。
そんな私を、彼女は何とも言えない表情で見ていた。
*
「……なぁ、お前さ」
学舎への道すがら、暘俊が何か言いづらそうに口を開いた。
「うん?」
「どうしていつも母上にあんな態度とるんだ?悪いってわけじゃないけど、なんて言うか……毎回微妙な空気になるだろう」
「……うーん」
『あんな態度』というのは、私が彼女を一度も『母』と呼んだことがないことや、他人行儀な態度を取ることを言っているんだろう。
暘俊への振る舞いと父母への振る舞いに差があることを訝しんでいるようだった。私としては、差をつけているわけではないのだけど。
「奥様はね、不安なの。私が養女として護家に引き取られたその時から、俊の立場を脅かさないか、俊を不幸にしないかってね」
「そんなこと――」
「まぁ聞いて?私は、安心させたいんだ。私にそんなつもりないって。私に優しくしてくれる護家の人たちを害することはないって、わかってほしいの」
「……そのために、他人行儀にするのか?」
「そ!そうすれば、私に俊の立場――護家後継者の立場を奪うつもりなんてないってわかってもらえるし、安心させてあげられるから!」
未だ釈然としないといった顔で何やら考えている暘俊の思考を中断させるために、私は彼の手をとって走る。だって暘俊が考えたって仕方のないことだ。私はただ、みんなの『色』が少しでも綺麗であるようにと振る舞っているだけなんだから。そんなことで悩むより、暘俊には笑っていてほしい。
「とうちゃーく!」
彼をぐいぐい引っ張って駆け込んだそこは、多くの学生で賑わう学舎――もとい、教練院だ。比較的最近入学した私は「共通教養教練学舎」通称「共通塔」に、暘俊は「神官教練塔」通称「神官塔」に通っている。私もあと一つ試験を突破すれば彼と同じ神官塔へ通えるのだけど、残念ながら今はまだ別々だ。
後ろで肩で息をしている暘俊を振り返る。
「大丈夫?」
「お、お前……突然、走るなと、何度言えば……!」
「俊ってば相変わらず体力ないねぇ」
「俺は武官じゃないんだからいいんだよ!」
毎度の言い訳を笑って流して繋いでいた手を離す。
「じゃあ、また後でね」
「あぁ。ちゃんと真面目に授業受けるんだぞ」
そうして私たちはそれぞれの教室へ向かった。
*
「さて、今日はいよいよ天郷史に入るぞ。内容を知っている学徒もいるだろうが、最後の必修科目なのでしっかり聞くように」
教官が分厚い歴史書を開くのを、私は広い教室の隅でぼんやりと眺めていた。天郷史は護家の家内修練で耳にタコができるほど聞いているので、必修科目でなければ絶対に回避していた授業だ。正直これからの時間が億劫である。
「ではまず前提の確認だ。皆、この天郷と呼ばれる地が本来人間の暮らす『人界』とは別空間にあることは理解しているな?忘れていた者は今必ず覚えなさい」
教室で等間隔に着席する多くの学徒が教官の言葉を受け手を動かしている。共通塔の座学はそのほとんどが口頭教授により行われるので、皆一言一句聞き逃すものかと必死になっている。その光景になんとなく疎外感を感じながら眺めていると、気づけば教官の話は本格的な天郷史の内容へと移行していた。
その昔、人界は地獄もかくやとばかりに荒れ果てていた。飢餓や戦乱、病、貧困は人々の心を蝕み、思想は乱れ悪鬼を招く。そのような世界で、我々の祖先は貧しい村を懸命に守り、苦しみに耐える日々を送っていたそうな。そんな彼らの眼前に、ある日高貴なる一柱の龍神が降臨めされた。龍神は一人の巫女を所望され、その代償に如何なる願いでも一つだけ叶えると仰せになった。巫女は歓喜の涙を流しその身を捧げ、村長は迷うことなく村の救済を願った。『戦乱も、飢餓も、病すら届かぬ桃源郷へ、どうか我らと我らの子らをお導きください』と。龍神は真摯なる村長の願いを受け入れられ、神々の休息地である境谷への道を開き、我らの祖先をお導きになった。境谷には多くの神々が魂の休息のため住まわれていたが、彼らは祖先の境遇に同情され、快く人間の立ち入りをお許しになった。そうして、村長は尊き龍神と共に天郷を創造された。これが、数千年続く天郷の始まりである。
「故に、我らは祖先の苦難を忘れることなく日々を大らかに生きなくてはならない。未だ混沌に包まれた人界を、いつの日か神に選ばれた人間として救済することが我らの使命であることを忘れてはならない。……ここまでで、何か質問がある者はいるかな」
朗々と響く声がふつりと途絶えたと思うと、学徒たちは帳面から顔を上げ思い思いに質問を投げかけていく。
「なぜ我々は人界救済を使命としているのでしょうか?」
(……『それは、境谷に住まう神々から与えられた課題であるから。私たちは神に選ばれし栄光ある人間の末裔であるのだから、責任を果たさなくてはならないのだ』)
「境谷とはどのような場所なのですか?」
(……『境谷は人界と神界の狭間に存在する空間。魂に傷を負った神々が余生を過ごすための場であり、大小様々な島が現れては消えていく不安定な空間だが、天郷は龍王様の庇護により存続している』)
「……」
暇だ。暇つぶしがてらに学徒たちの質問に脳内答弁してみたものの、大した暇つぶしにもならなかった。
チラッと教室を見れば、私と同じようにぼんやりしている学徒が何名か見える。彼らは私と同じで貴族の出身なんだろう。今日の授業はどの家でも特に厳しく覚えさせられる話なので、そんな態度になってしまうのも仕方がない話だ。
(暘俊はどうしているかな……)
今日は研究院から術の研究者が派遣される特別授業だって言っていたっけ。暘俊は体力がないけど頭はいいから、座学ではいつも良い成績を取っている。今日の特別授業は代々研究者を輩出している名家から教官が来るみたいで、前から楽しみにしていたようだった。教官の名前は確か、闓家の……。
「……あれ?」
向こうに見えるの、暘俊?まだ授業中のはずなのにどうして。それにあれは、黒狐様……?当主様に仕えるお方がなんで学舎に。
「護麗青!聞いているのかね!」
「!」
窓の向こうを気にかけすぎて、教官に訝しがられてしまった。いけない、今は護家の人間としてここにいるのに……!私は急いで席を立って頭を下げた。
「申し訳ありません。少し、集中が乱れておりました。どうぞ授業をお続けください」
「全く……他の者も、既に教練を受けている者もいるだろうが大切な内容なのできちんと聞くように。では、授業を続ける」
*
「今日の授業はここまでとする。必修科目を全て履修し終えた者は後日修学試験を行うので各自手続きを行うこと。では、解散」
教官がパタンと歴史書を閉じて教室の扉をくぐり、閉める。それを合図に私は急いで荷物をまとめて飛び出した。
暘俊が黒狐様に連れられて行ったのは教練庁水門塔だった。ということは行き先はきっと、龍宮か神官府……?学徒に水門の使用が許可されるなんて余程至急の要件だったに違いない。あれは許可証を持たない者が通るには龍王様のお許しがいるから。でも、至急の要件って何……?!
ぐるぐる回る思考と嫌な予感に背中へ冷や汗が伝うのを感じながら、できる限りの早歩きで教練庁の外門へ向かう。
と、後ろから慌てたような声がかかった。
「お待ちを。護家の麗青様でいらっしゃいますね?」
「!あなたは…お狐様?何かご用でしょうか。私、急いでいるのですけれど……」
おかっぱ頭に狐耳が愛らしい幼子は、きちんとした仕草で丁寧に私へ頭を下げた。
「黒狐より、言伝を預かっております。お耳を拝借できますでしょうか」
「黒狐様から……?!それは、もしや兄のことについてでしょうか」
思わぬ情報に私は慌てて居住まいを正して改めてお狐様へ向き直った。彼(彼女?)はにこりと微笑んで首を縦に振る。そういえば、お狐様と黒狐様は大元を同じくする神様だった。彼らは個体間で記憶の共有や意思疎通ができるというから、きっと詳しい話を聞くことができるだろう。ちょいちょいと手招きするお狐様に応じて、私はその口元へ顔を寄せた。
「暘俊様でございますが、何やら龍王様より勅命を受けられたご様子にございます」
「龍王様から?!」
突然のことについ大きな声が出てしまった。
幸い授業終了直後だったこともあり、周りには人がまばらで特に気に留められた様子はなかったが、お狐様は慌てたように口元に指を立てた。それに全力で頷いて続きを促す。すると、なぜか少し言い淀んだのち歯切れの悪い言葉が続いた。
「その……実は此度の招集は麗青様も共にとのお達しだったのですが、神官府長様がご子息のみで良いと仰せになりまして。龍王様が承諾なされたので、黒狐が兄君をお連れしたのでございます。ただやはり此度の勅命、麗青様へも下されるものであったため、私が龍王様の名代としてお伝えに参った次第にて……。」
「……そう、ですか。当主様が。……委細承知いたしました。龍王様からの勅命となればお引き受けしないわけにはいかないでしょうが……私は護家養女の身。当主様のご判断を仰ぎたいと思います」
その返答を聞いてどこかホッとした様子のお狐様に改めてお礼を伝える。彼は一つ頷いて尻尾を緩く揺らすと恭しく頭を下げ、空気に溶け込むように消えてしまった。
「……さて、と」
色々と情報が一気に入ってきたせいで全然飲み込めていないけれど、とりあえず異常事態なのは確かだ。ほとんど人の営みに干渉せず沈黙を貫く龍王様が、護家の者とは言え一学徒に勅命を出すなんて。正直本当に何が何だかわからないけれど、ここでいくら考えても解決することはないだろう。
「とにかく、帰ればいいよね?」
もちろんその問いに返答はない。でも、いちいち声に出してでもいないと不安でどうにかなりそうだった。早く暘俊に会いたい。会って、ちゃんと彼の言葉で事情を聞きたい。
震える足をぱんぱんと叩いて勢いをつけると、私はそのまま護家のお屋敷へ向かうのだった。