幼き日の小さな敗北
「おやおや、麗青様は不器用であられるんですねぇ」
「……あはは……」
せっかくのお散歩日和に部屋に籠って何をしているのかと言えば、毎日の家内修練である。中でも今日は一番苦手な印術の練習日で、私は朝から指導役のお狐様に見守られつつ印を引く練習に勤しんでいた。
そうして出来上がった机上のそれはカタツムリの行き道がごとく。くすくすと楽し気な笑いを悪気なくこぼす、見た目だけ幼いかの狐神に言い返す気力もなく私の口からは乾いた笑いがこぼれた。
(不器用……ではない、と思うんだけどなぁ)
大口を叩くつもりはないが、ある程度のことはそつなくこなせる自信がある。それなのにどうしてか、印を美しく引くことだけは初めからできなかった。これまでたくさん勉強して基本の印形はきちんと頭に入っているのに、いざ線を引けばそれは震えるばかりで。
毎度こうして悪意ない笑みを受け取るばかりの印術練習は、正直少し苦手になりつつある。
「まぁ、そう慌てずとも。術は向き不向きもございますので」
「それは、分かっているのですが……印は、護家のお家芸でしょう。護家に引き取られた私がまともに印術を操れないようでは、お家に迷惑がかかるかもしれませんから」
そんな理由で少し気負いがあるところも、印を苦手に感じる一因なのかもしれなかった。
「ふふ。さようでございますね。では気を取り直してもう一度」
問答無用と新たな用紙を眼前に敷かれ少々げんなりしてちらりと彼(彼女?)の顔を盗み見れば、表情の読めない微笑に大きな狐耳が愛らしく動く。
お狐様方の『色』は、本当に分かりづらい。以前黒狐様に、あまりにも外見の特徴が似通ったお狐様方のことを訪ねたとき、狐神一族の中でも彼らは所謂『量産型』で思考権限があまりないのだと教えてもらったことがある。常時にはっきりとした色が見えないのはきっとそのせいなのだろうが、こんな時に何を考えているのか、何を感じているのか見えないのは若干不便さを覚えた。
……まぁ、人相手ならまだしも、神相手に不平不満なんてこぼせるわけもないんだけれど。
ひとつ息をついて、整えられたシミ一つない白紙に緊張しつつも筆を滑らせる。
完成図を想像して、ゆっくり、丁寧に。
そうして引かれた線は、何故だかやっぱりフラフラぐにゃぐにゃで。
「ど、どうしたら……」
と、後ろから誰かが部屋に入る気配がした。
振り返れば、学舎から戻ったのだろう暘俊がにこやかにお狐様へ帰宅の挨拶を交わしている。わざわざ挨拶に来るだなんて律儀な彼らしいな、と感心していれば、暘俊はふと勉強中の机上を覗き込んだ。
まずい、と思った時には既に遅く。脇に避けられていた失敗作は彼に掬い上げられていた。
慌てふためく私をよそに、それを見るなり彼はふはっと吹き出す。
「あははっ、お前不器用だなぁ」
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか……!」
ぽんぽんと子気味よく私の頭を撫でながら楽しげに笑う暘俊に、なんだか悔しい気持ちになってくる。彼の笑い方もその『色』も決してこちらを馬鹿にしたものではなくて、どこか嬉しそうなものだったのが唯一の救いだろうか。もちろん他者の目があるので敬語は外さないが、それでもこうして笑われていい気はしないので、とりあえず抗議の意思を態度で(具体的には頬を膨らませて)示しておいた。
笑いながらも一通り失敗作を眺め描きかけのものも覗き込むと、暘俊はくるりとお狐様に向き直った。
「少し、修練のお時間を私に頂けますか?」
「ふふ。もちろんですとも。我らがご教授するよりも、よほど実りあるものになりましょうから」
「ありがとうございます」
「……暘俊様?何をするおつもりです?」
私の問いには答えず、彼は筆を受け取ると描きかけの用紙の隅にくるりと美しい正円を描いてみせた。
「なっ……!」
「まずは、これができるようにならないと話にならないからな」
優しく微笑みかける暘俊に、再び悔しい気持ちが湧き上がる。自分が苦戦していたことをこんなにもあっけなく完璧にこなされるとやはり悔しい。けれど実際暘俊はとても美しい印を引くと評判で、それに見合う努力を重ねた人でもあることは事実である。
「印は他に比べて地道な術だ。才能より積み重ねた時間と量がものを言う。……俺は、お前には符か陣の方が向いていると思うんだけど……それでもお前は印を扱いたい?」
真剣な問いにこちらも真剣に頷けば、彼は「そうか」と笑った。
「それじゃあ練習あるのみだな」
「でも、それなら……私がまともな印を引けるようになるのはいつになるのでしょう」
これまでの失敗を思い返して半分べそをかきながら問えば、暘俊は少し考えるそぶりを見せた。
「うーん。いつになるかはわからないかな。それはお前次第。……でも、そうだな。印は練習量とは言ったけど、短時間でうまくならないわけでもない」
「そうなんですか?!」
「うん。コツがあるんだよ。……あ、そうだ。実際に教えてあげるから、筆を構えてみて」
言われるがままに筆を手に取る。頭に疑問符を浮かべながらも姿勢を保てば、私の筆を持つ手を彼の手が後ろから包み込んだ。客観的に見ると、彼が後ろから覆いかぶさるような体勢である。
(ひゃ?!)
突然の事態に一瞬思考が止まった。驚きを声に出さなかった自分を褒めてあげたい。
いや、うん。確かに日頃から人目を盗んで飛びついたりしてはいる。暘俊も別に嫌がらないし私も楽しい。でもなんか……なんか、これは違くない?こっちから行くのと向こうから来られるのはちょっと、違くない?それになんかほら……近く、ない??
「いいか?手首ではなく腕全体を使うんだ」
ゆっくりと筆が押し出されていく。ほとんど暘俊の力のみで引かれたそれは、今までのものに比べるべくもなく美しい正円だった。
彼は出来上がった円を満足そうに見ると一つ頷いた。
「うん、まぁこんなものだろう。今ので感覚は掴めそう?麗青。……麗青?」
固まる私を不思議そうに覗き込む彼に慌ててぶんぶんと頷いて見せた。正直感覚どころか何を言われたかも怪しい状態だけれど、これ以上は危険だ。
だって近い!近すぎる!!
さっきから何度も頭の中で落ち着け落ち着けと繰り返しているけれど、きっと私の顔はすっかりゆだってしまっているだろう。
そんな私をしばらく不思議そうに眺めていた暘俊が、まるで「ふ~ん……」とでも言いたげな悪い笑みを浮かべた。
「なにお前、照れてるの?」
「うぇ?!て、照れてない!!」
暘俊の意地悪な問いかけに思わず叫べば、立ち上がった勢いで椅子がガタンと倒れた。
自分自身を張り倒したくなるほどバレバレな反応に、案の定暘俊がおかしそうに笑っている。それどころかお狐様まで肩を揺らしていて、あまりにいたたまれない私はこの場の空気を何とかすべく未だ笑い続ける暘俊の背中を押した。
「もう!暘俊様はまだ学舎の課題が終わっていないんでしょう?!私のことより自分の心配をしてください!」
「あぁうん、ごめんごめん。あまりにも……ふふっ。素直な反応をするものだから、楽しくなってしまった。俺はそろそろ退散するよ」
言いながら私の頭を一撫でしつつ椅子を起こすと、彼はお狐様に挨拶して素直に去っていった。
徐々に小さくなる足音に安堵しつつ何とか気を取り直して椅子に座ると、机上に音もなく白紙が敷かれる。
「では、お時間までもう一度練習をいたしましょうか」
柔らかい微笑みと共に振ってきた言葉を合図に、私は再び筆を握る。
白い紙に引かれた線は、以前と比べて少しだけ震えが取れたような気がした。