準備は入念に
柔らかな風が金木犀の香りを運び、日光が鮮やかに庭木を染め上げる秋晴れの午後。
秌家邸宅の一室は、今まさに戦場と化していた。
ことの発端はつい先ほどまで開かれていた、『女子会』での一言である。
――
「そういえば、これは私が界視官を務めていたころの話なのですが」
暖かな陽気に誘われてか、普段なら絶対に口にしない話題がするりと口から滑り出た。それに自分自身で驚きながらも、興味津々といった様子で相槌を打つ面々を待たせまいと凜は言葉を継いだ。
「ずいぶん昔にはなりますが、人界で奇妙な祝祭を見たんです」
「奇妙な祝祭?」
瞳をきらきらと輝かせて前のめりに繰り返す乱華。普段は穏やかに微笑んでいる封聖も興味深そうに耳を傾けている。視線を隣に移せば麗青もどこかワクワクした様子で、話題選びが成功したことを確信した凜は心中で喜びに手を叩いた。
「そうなんです。ちょうど今くらいの時期で、民衆が奇妙な衣装を着て街を練り歩いていました。確か……仮装、といったかしら。界視官は人界の民との接触を禁じられていますから、具体的にどんな祝祭だったのかはわからなかったのですが」
「仮装……ですか?それはいかなるものなのでしょう」
「見たところ、魔物を元にしたものや物語に出てくる登場人物の衣装といった、日常的に着る服ではないもののようでした。この国に比較的馴染みそうなものだと、『キョンシー』というものがありましたよ。確か術により動く死体……だったかな。こう、頭に『急々如律令』と書かれた印を張っていて……」
そこまで聞いて衝動が抑えきれなくなったのか、乱華が机に身を乗り出して一言。
「それやろう!!」
――
日常的に集まる面々の中で、乱華の無邪気なお願いは大抵の場合叶えられる。今回もまた、例外ではなく。
理由をつけて何とかなだめようとした凜を横目に計画はみるみるうちに進み、仮装の題材決めから衣装選び、化粧、皆を呼んでのお茶会のセッティングなどをたったの一刻で行うこととなった。無論、それらの準備は主に会場を提供する凜である。
そんなわけで、秌家邸宅の一室は(主に凜の影響で)戦場と化していた。
「乱華様乱華様!先程お渡しした衣装へのお着替えは終わりましたか?」
「うん終わったー!どう?似合ってるかなぁ」
「もちろんですとも!とっても良くお似合いです。さぁこちらへいらしてくださいね、今化粧をしますから」
落ち着きなくふわふわあたりを飛び回っている乱華を捕まえて身支度を整えていく凜は、忙しさに目を回しながらもどこか楽しげである。
そんな様子を部屋の隅で穏やかに眺めていた麗人は、ちょうど衣装への着替えを終えた麗青に向って、まるで蝶を誘うかのように手を差し出した。
「さぁ、貴方はこちらへ。凜は忙しそうですから、私が支度を手伝いましょう」
「あ、はい封聖さん。よろしくお願いします」
いつ見ても彼女の一挙一動は実に美しく、神聖な雰囲気も相まって、麗青は彼女と接するときいつも緊張に体がこわばる。
例に漏れず背筋を伸ばして固まっていた少女を見て、封聖は口元を緩めた。
「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。確かに私は、こうして誰かの身支度を手伝うような経験はあまりありませんけれど、悪いようにはいたしませんから」
流れるように髪を結いあげていく彼女の指先に麗青が見入っていると、後方から忙しなく駆け寄る足音と香の爽やかな香りが近づいてきた。
「あら封聖様!申し訳ありません、麗青の身支度をおまかせしてしまって……!」
「いいえ。とても楽しいですし、私はちょうど手が空いていますから」
「封聖様も一緒にお着替えできればよかったのですけど、大切な封具を脱ぎ捨てるわけにもいきませんしね。その代わり、この後のお茶会はめいっぱい楽しんでくださいな!」
「えぇ、楽しみにしています。それより凜、乱華の身支度は終わったのですか?」
「はい、先程!乱華様は衣装を屋敷の者に見せてくると言って出ていかれましたよ。私はあちらで衣装を選んでいますから、何かあったらお声をかけてくださいな」
凜はそう言い残すとぱたぱたとかけていき、忙しそうに衣装を手に取り始めた。
正直なところ、最も手のかかる乱華が自ら退席してくれたことは凜にとって実にありがたかった。乱華の存在は場を明るく華やかにするが、どうにも意図的に悪戯をしているような節もあって、忙しい彼女からすれば最も目を離せない要注意人物なのだ。
「ん~、どれにしようかしら。できれば他の二人と色や雰囲気が重ならないようにしたいしな……」
そんなことをひとり呟きながら衣装選びを楽しんでいる凜の耳に、先程退出したはずの楽し気な少女の声が飛び込んできた。
「そう!それでみんなで着替えようってことになってね!」
「なるほどそれでそのような格好を……」
乱華である。しかもどうやら人を連れているらしい。
(この時間のない時にお客様だなんて、なんてことなの……!)
「あ、ここだよ!麗青がすっごく綺麗だから、早く見せたいと思って!」
「え、青も着ているんですか?ってうわ?!引っ張らないでください乱華殿!……ヒッ」
乱華に引きずられるようにして部屋に足を踏み入れた客と凜の視線が交差したその瞬間、客は引きつった悲鳴を上げた。
「なっ……!暘俊?!」
部屋の状況を一瞥して一瞬で状況を把握したのか、凜の余裕のない視線に圧倒されたのか、彼の視線は明後日の方向に向けられ笑顔はこわばっている。
「こ、これは秌凜殿、この度は茶会のお招きありがとうございます……」
――
そのあとの出来事を、部屋の隅から見守っていた封聖はこう語った。
「ふふ、まさか凜が人界の術を暴発させて、壁ごと暘俊を吹き飛ばすとは思わなかったですけれど……慌てる凜はとても可愛らしかったですよ。暘俊に怪我はありませんでしたし、音を聞きつけていらした白狐様と凜の賑やかなやり取りが見られましたから、私はとても楽しかったです。また皆で今日のように集えたら、きっと今日以上に楽しいことでしょうね」