淡春
日差しが柔らかく差し込む中政宮の一角。神子ノ宮の裏手、隠れるようにひっそりと佇む東屋は、まるでそこだけ氷に閉ざされたかのように張り詰めた空気が流れていた。
中心に置かれた机には大層美しい男女が一組、向かい合って座っている。二人に笑顔はなく、かと言って険しい色も感じられない。ただ淡々と、淡々と、表情もなく言葉を紡ぐ。そんな彼らを、男の付き人たる自分は緊張した面持ちで見守っていた。
「――以上が、本日の報告事項となります。何か不明な点などございますか」
「いいえ。必要事項は把握いたしましたから、問題ございません」
書類を片手に問う男の名は護蝶雲。西護家の次男にして神士官庁長官代理補佐を務めている。目を伏せたまま答えた女の名は護封聖。東護家の一人娘で若き神理保守庁長官兼神子である。
この日の話合いは、月に数度行われる庁間定例報告会であった。そのような珍しくもない会議が何故こうも張り詰めているかと言えば、参加者の気質によるところが大きいだろう。何といってもこの二人は、『氷心の麗人』『仕事の鬼』として内外問わず有名なのだ。職務に一切の妥協を許さず、自他ともに厳しく、常に表情が変わることのない二人が主として語るこの場の空気が冷たくなるのは火を見るよりも明らかである。本来であれば人当たりの良い蝶雲の兄、神士官庁長官代理が会議に出席するところなのだが、なんでも近頃の厄介ごとが祟ってか体調を崩されたようで、兄の代わりに弟が出席することになったという。それを聞いた付き人たちは総員不安に顔を青くした。無論、現状の空気感を危惧してのことである。
「一通りこちらから話すべきことは話し終えましたので、これ以上議題がないようであれば私はお暇させて頂きます」
そう前置いて席を立とうとした代理補佐にようやくこの場から解放されると気が緩んだのもつかの間、静かな声が彼を制した。
「お待ちください。まだ、伺っていないことがあるかと存じますが」
「……さて、何のことでしょう」
声の主がそれまで伏せていた目をスッと上げる。表情の読めぬ黄金の瞳に思わず生唾を飲んだ。美しさも極致をゆけば、ここまで恐ろしいものに見えるのか。
「……先日、『森』で神士官と森番たる緑犀様が衝突したと報告を受けております。この件について、ご説明いただけますか」
「……情報がお早いようで何よりです。しかしその件は我ら西護の管轄。不用意に口を出されぬほうがよろしい」
長官代理を体調不良に追いやった『厄介事』がこんなところでも火種となるとは……。代理補佐はもとよりそれを報告する気はないようで、二人の間には目に映らぬ火花が散っているように見えた。
「私は神理保守庁長官として、神々の理を守らねばなりません。聞けば、これまでも同様の諍いが頻発しているとか。緑犀様の理が侵されている可能性を見過ごすことは、東護の義に反します」
「……なるほど。一応、筋は通っているようだ。しかし私はあくまで代理としてこの場におりますゆえ、独断で事の詳細を報告することは致しかねます。後日、改めて上官を交えた会議の場を設けるということでよろしいでしょうか」
「……よいでしょう。では、そのように。後ほど私の部下をそちらへ向かわせますから、時と場所はその者と調整いただければ幸いでございます」
一時はどうなることかと思ったが、これでこの報告会も無事閉幕らしい。
「では」、と資料を渡して席を立つ上司を後目に同僚と揃って礼を残し、暖かな日差しの元へ踏み出す。……やはりあの東屋、いくらか気温が低かったような。などとぼんやり考えていると、数歩前を歩いていた代理補佐が足を止め、くるりと神子に向き直った。その表情は何やら険しく、珍しく感情が垣間見える。
「失礼ながら一つ、年長者として忠告を。神子として生きるのならば、祀り上げられた地位に甘んじていなさい。手を広げすぎれば、いつか大切なものを取りこぼしますよ」
「……ご忠言、痛み入ります」
唐突に発せられた上司のあまりの言葉に皆絶句し固まっていた。普段通りなのは神子くらいで、相変わらずの無表情である。
代理補佐が彼女にかけた言葉は、要約すれば『お飾りは黙っていないと命の保証はないぞ』というあたりだろうか。確かに実際のところ神子は神保庁長官としてはお飾りで、実権はほとんど官職を引退した東護の当主が握っていると聞いている。が、わざわざ公衆の面前でこんな言葉を掛けるとは……やはり、『代理補佐が神子を嫌っている』という噂話は本当なのだろうか。
固まる部下を気にも留めず再び歩みだした彼を慌てて追いながら、噂の真相に思いを馳せた。
――――
東屋から去っていく彼の背を見送って、周囲に気づかれぬよう小さく息をつく。
今日になって神士官庁から参加者変更の知らせが届いたときは、突然の事態に少しだけ心が揺らいだ。彼と仕事を共にするのは初めてのことで、思いのほか緊張していたらしい。
「……神子様、その……大丈夫ですか。あまり、お気になされぬよう……」
背後からこちらを窺うように躊躇いがちな声がかけられる。どうしてそんなに心配そうなのかわからなかったが、少し記憶をたどれば最後の会話に思い当たった。あの言葉は公務中でも掛けられる、彼なりの最大限の心配を表した言葉だったのだけれど、どうも彼と私の会話を見た者には真反対の言葉に聞こえるらしい。中政宮では私たちが嫌い合っているとの噂まであるとか。
「心配ありがとうございます。特に気にしていませんから、貴方たちも忘れなさい。それと、私はここで少し休んでいきます。護衛は不要ですから、各々仕事にお戻りなさい」
一声かければ、部下たちは一礼して東屋を去っていった。
人目のない貴重な時間に目を閉じ、流れる風に身を任せる。
人の気配が完全になくなったのを確認して、彼から受け取った資料を改めて手に取った。
一枚一枚、めくっていく。そうして何枚かめくったところで、鮮やかな緑が姿を見せた。
「あ……」
浮き立つ心を抑え、それを手に取る。
手のひらほどの大きさの、若葉色が美しいただの紙。表裏を見ても文字どころか炭の気配すら感じぬその紙は、彼からの逢瀬の合図だ。
逢瀬と言っても皆が寝静まったころ互いに家を抜け出して、人目につかぬこの場所でただ語らうだけの些細なもの。何をするでもなく穏やかなだけのその時間が、日頃感情を殺す私たちにとって何より心安らぐのだった。
誰もいないのをいいことに、つい顔がほころぶ。久々の逢瀬に何を話そうかと思考を巡らせていれば、不意に背後から声を掛けられた。
「封聖様」
「きゃっ。……あ、白狐様……。気づくのが遅くなり申し訳ございません」
「こちらこそ、驚かせるつもりはなかったのですが……何やら、楽し気ですな」
彼は笑みをたたえてこちらを覗き込む。素早く紙を資料に紛れ込ませ、微笑み返した。
「えぇ、少し……嬉しいことがありました」
「そうですか。それは良きことです。……しかし、何卒お気を付け下され。貴方は東護にとって大事なお方。どこで誰が見ているかわかりませんから、あまり感情を表に出して隙を見せぬように……」
「……はい」
白狐様の忠告に素直にうなずいて、席を立つ。
東屋を出るころには、いつも通りの無表情。誰にも隙を見せず常に薄氷を纏って生きるのが、私にできる唯一の身を守る術だ。
ありのままの己を出すのは、月が昇るまでのお楽しみ。
あの方は、今日はどんな話を聞かせてくれるだろうか。